1,000,000!

1973年、BMWは初の海外生産拠点として南アフリカ・ロスリンに工場を開設、2014年には6万8771台の3シリーズセダンを生産し、従業員総数は間接雇用を含めると4万3000名以上となります。

以降、着々と構築される海外の生産ネットワークは、現在では世界14か国、30の工場とまでなりました。

その南アフリカ工場における累計生産台数が100万台に到達したことが発表されました。

4924080948923804238948204829848209482084092840239.jpg記念すべき累計生産100万台目の車両となったのは「3シリーズ・セダン」で、この1台のラインオフを従業員が祝福したとのこと。

ハラルド・クルーガー生産担当取締役は「南アフリカ工場は、現地生産を通じて市場参入を成功させる好例であり続けている」と述べています。
シリーズやエンジン、左右ハンドルなどによって変わる生産地、皆様のBMWも多くの手を経て届けられているのですね!

高槻店 上田

各メーカーが注目し開発を進めている自動運転技術、安全に走行できることは最低条件となります。
BMWが運動性能にこだわる理由、それは「駆け抜ける歓び」のためでもありますが、緊急回避の際の安定性や操作性がここに大きく関わるからでもあります。

自動運転技術においてもこの運動性能をコントロールすることができるデモが動画で公開されています。


動画内ではプロがハンドルを握る赤いBMWと自動運転のシルバーのBMWが比較され、両車の描く軌跡がどちらも優劣つけがたい完成度の高さとなっていることが確認できます。

装着された様々なセンサーを元に挙動をしっかりとコントロールする最新技術、今後のさらなる進化が面白そうですね!

高槻店 上田

自動車の中でスマホやタブレット端末などを利用される方も多いかと思います。
さらにウェアラブル機器などが登場すれば、車内で通信を行なう機会が飛躍的に増えることになります。

しかし一方で、金属製のボディが通信を遮る問題は解決されておらず、電波が微弱な地域ではそれはより深刻なものとなります。
そんな問題を解決すべく、BMWはpeiker acustic、Nash Technologiesと共同で「Vehicular Small Cell」の開発プロジェクトを進めていると発表しました。

380381941304793747491730740972097097309.jpgこのプロジェクトは、事業所や住宅などで利用されている超小型基地局のフェムトセルをベースに、自動車への搭載を前提として開発が進められています。
これはカーナビや車載情報機器の通信機能を安定させられる上に、車内のモバイル機器の通信環境も向上することが可能。
さらに車内の通信環境の向上によって、各モバイル機器の電力消費を低減する効果も得られるとのこと。

製品はスペインで行なわれる「Mobile World Congress 2015」で披露されます。

高槻店 上田

移動の道具

本田宗一郎氏(ホンダ創業者)、豊田英二氏(トヨタ中興の祖)、田口玄一(品質工学の開発者)に続いて、日本人4人目となる「米国自動車殿堂」入りを果たした日産「フェアレディZ」の生みの親として知られる片山豊氏が105歳でご逝去されました。
自動車産業の一時代を作り上げた同氏のご冥福を祈りつつ、その人生についてご紹介させて頂きます。

a03_m.jpg1935年、慶応大学を卒業し設立2年目の日産自動車に入社。
その後、満州勤務や日産財閥の造船会社などを経て、再び日産で勤務することとなります。

片山氏は各社と連携しながら「東京モーターショー」の前身となる自動車ショーの開催に向け精力的に活躍。
1954年には日比谷公園で「第一回全日本自動車ショー」が開催され、日本でもモータリゼーションの時代を迎えます。

1959年、日産は新型「ダットサン310」を発表し愛称を「ブルーバード」と名付けました。
しかし翌年、片山氏は後に会長となる石原俊取締役と対立、米国へ左遷となります。

1-25-1.jpgそして、ここが人生の転機となります。
片山氏は本社の指示に従わず、販売会社をロサンゼルスに置いたのです。
それはクルマを「生き物」と考え、人間と同じように医者(サービスエンジニア)と薬(補修部品)が必要であり、陸揚げした車を近くで見られる所が良いとしたからです。
当時、西海岸でよく売れていたのはドイツのVWで、その営業手法はアフターサービスの良さであることが分かり、それをベンチマークとしたのです。


移民を受け入れてきた米国西部には新しいものを受け入れてくれる素地があり、日本車の販売も行いやすいとの感触を掴んだ片山氏は販売実績を伸ばし、1965年には販売会社の社長に就くこととなります。

a04_m.jpg米国市場向けにエンジンを大きくしたモデル「ダットサン510(ブルーバード)」が1967年に発売、「BMWにも対抗できる車になった」と片山氏は感じていましたが、まだ一歩足りませんでした。

このため、これをベースにしたスポーツカーの開発を行い、誕生したのが「ダットサン240Z(フェアレディZ)」。
当時の米国市場で「日産」は知らなくても「ダットサン」は知られるほどの大ヒットモデルとなり、1975年には米国の輸入車販売でVWを抜いて1位となったのです。

その後、日産は「ダットサン」ブランドを捨て「日産」に統一、1999年には仏ルノーの傘下に入ることとなりますが、日産を退社した後も「ダットサン」を愛し続けた同氏、クルマづくりへの根本的な考え方に意義を唱えることも多かったそう。

「車は単なる移動の道具ではなく、社会を豊かにするためのもの」

単なる移動の手段ではなく移動そのものが歓びとなる、クルマを愛する者がつくるメーカーでいつまでもありたいですね。

高槻店 上田

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